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映画『のぼうの城』感想(かなり悪い評価です)

新年早々景気の悪いタイトルですみませんが、見る機会があったので書きとめておく。
人づての話から、大体内容の予想はついていたのですが、のぼうの城の映画は自分的には感心できる内容ではありませんでした。と言うか、かなりひどい。

基本自分が感想書くときは、納得行かない箇所を逐一書いて、ではどうすれば面白くなるのか考察する・・・てのを旨としているのですが、
ネガティヴな記事を書くには、時間も気力も不足しているので、自分の気になった要点だけ散文的に。

自分はどうも、映画やドラマを見るとき、人の心の動きが納得行かない物だと途端にノれなくなってしまうところがあるようです。
A級B級それぞれの楽しみがある事は心得ているのですが、「このキャラだったらこう言う言動をする」を外されると、楽しめなくなってしまう。

で、「のぼうの城」ですが、主役の成田長親の行動原理が、どうも理解できなかった。
でくのぼうと思わせて、「ここだけは外さない」と言う信念が、結局物語の最後まで解らなかった。
農民第一、と言う事にしたいのかもしれませんが、その農民を多く犠牲にしてるし・・・。
(後でネットの感想を見て回りましたが、やはりそう思う人はいたようです)
「不思議な魅力の持ち主」を表現したかったんでしょうけど、自分は彼からその魅力を感じませんでした。
それは私が、作中で長親にイライラしてる武将達と、同種の人間だからでしょうか。
しかし、何にしても、作中の農民が神のごとく彼を慕うのは理解できなかった。
「しょうがないなあ」的に、生き神様みたいに愛されるバカってのも確かにいますよ。
でも、それだけでは、百姓が望んで死地に飛び込むようなカリスマ性は持てません。
(大体、百姓の水田をダメにしたのは、長親にも責任があるのに、何で長親の方に恨みが行かないのかと・・・)
自分の経験を振り返って見た限り、この程度のバカでは、愛されるのは余裕のある時期だけで、非常時は無理です。
或いはもしかしたら、長親は漢の高祖か霍去病のような不思議な魅力の大器量者だったのかもしれません。
(霍去病は、部下に対する思いやりが欠けるようなところあったが、部下は不思議と彼を慕っていたと言う)
しかし、私はこの作中の彼から、そう言う魅力は感じませんでした。
そう言えば・・・長親には、甲斐姫・侍・領民のトラブルを「どうやったかわからないが」丸く収めたと言う挿話が入ってました。
しかしこれ、結局作中ではどう収めたか説明されませんでした。
ここに、納得できるエピソードがあれば、なんぼか説得力が増したと思うのですが。
表現しきれなくて、仕方なくぼやかしたのでしょうけど、逃げと言われても仕方ありません。

甲斐姫も浮いてました。
と言うか、作品を振り返って見ると、甲斐姫の存在意義がありませんでした。
いや、史実で存在してる(それも非常に美味しいキャラとして)訳だから、外す訳には行かなかった訳ですが、本作品は彼女なしでも成立する内容になってました。
演技も悪かったけど、脚本や演出の犠牲者とも言えるでしょう。

豊臣方では。
石田三成にも行動に一貫性がありませんでした。
良いところと悪いところのある複雑なキャラクターを目指したのかもしれませんが、例えそうでも、そこには芯が必要なんです。
つまり、ある決まった性格と行動規範があって、それが良い方向と悪い方向、交互に出てしまうような。
長束正家がバカすぎるのにも困った物です。わざと極端に描く、そう言う作風なんでしょうけど。

端的な例として、気になった会話を挙げます。
冒頭、高松城水攻めを見てた三成が言います「俺は、こんな戦をしてみたい!」
どうもいけません。
このセリフは、後の忍城の攻め方への伏線になる訳ですが、ストレートすぎるし、あの状況でこんな言葉が出てくるのもどうもおかしい。
自分だったら、どう言うセリフにしようか。
「これが、新しき時代の戦か!」・・・? まだまだです。
自分が想像する石田三成像は、自己顕示欲から来る、誇り高き理想家と言うところでしょうか。
ならば、同僚に、
「見たか、これが新しき時代の戦よ!」
とでも言うのではないでしょうか。
作戦の大筋を立てたのは秀吉(或いは黒田如水)なのに、その下で働いている内に、自分も彼らと一体となったように感じ、自分もそれができると思い込んでしまうような、そんなキャラクターを、私は三成に与えたくなるのです。

もう一つ例。
三成が諸将に水攻めの指令を出すシーン。
これは、三成らしさを表現するチャンスでした。
だから「水攻めで行く」なんて言わせず、こう言う順序で行けば良かったのではないでしょうか。

1)三成、作戦の詳細を説明せず、ただ「土嚢を集めよ」と命じる
2)諸将、「何ゆえ?」と問い詰めるも、三成笑って答えず。
3)諸将が去った後、大谷刑部が三成を問い詰める。「お主、水攻めを考えておるな」
4)刑部の作戦へのダメ出しは映画とほぼ同じ。ただ、最後に、
刑部「お主、なぜわしに事前に一言相談せなんだ」
三成「作戦はみだりに周囲にもらす物ではない」
刑部「いや、お主はわしに己が策を否定されるのを恐れたのだ!」

・・・と、こんな感じで。
いやね、私はフィクションの所謂「天才軍師」が作戦の説明せずに謎の指示を出すってシチュエーションを、危なっかしいと常々疑問に思ってたものです。
それはフィクションを面白くするための嘘なんですが、これでは作戦の意図を部下が理解できないし、策に穴があっても指摘する事ができないので、破綻する可能性が大いにあります。
(恥ずかしながら、私自身がそう言うミスをよくしてきたものです)
相談抜きに奇策を使えるのは、余程の経験の持ち主か、本当の天才だけです。
で、私は三成が、このフィクションの天才軍師のように振舞っちゃうタイプに思えるのです。余談ですが。

最後に例三つ目。
舟の上で田楽を踊る長親を、三成は鉄砲で撃ちます。
これはいけない。
三成は、本作品においても、行動に美しさを求める人物として描かれていたはずです。これでは一貫性がない。
むしろ、映画とは逆に、刑部が「撃て三成!」と言うのを、潔癖な三成が止める方が、しっくり来ます。

と、気が付けば長々書いてしまいました。
どうも私は、「自分のイメージするセリフ」と違うセリフが出てくると、途端に入り込めなくなってしまうところがあるようです。
だから私は、邦画は苦手なんでしょう。
(洋画だと、ある種自分と縁遠いファンタジーで、日本人なら言えないようなセリフを言われてもしっくり受け止められる)

現代的なセリフが多かったのは・・・まあ、そう言うのを目指したんでしょう。
ただ、それが中途半端だった。
だったら「現代的なセリフもオッケーな世界」である事を序盤で示し、全体に一貫してそう言う演出にするべきだった。
唯一、田楽のシーンだけがそれっぽくて良かったです。
それっぽいと言えば、画面は近年の映画の中ではいい色味だったと思います。
(それだけに、現代的なセリフが浮いてしまったところもある)
きっと、原作を読めば大分印象が変わる(原作の方がきっと良い)だろうなとは予想はできます。
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